前の記事で、
「子どもの話だと思って読んでいたのに、
少し自分の話にも見えてきた」
そんな感覚が残っていたとしたら。
今日は、その感覚をもう一歩だけ、静かに見ていきます。
結論を出す回ではありません。
自分を変える必要もありません。
ただ、
「自分は、どうやって安心を保ってきたのか」
そこに、そっと目を向ける回です。
「分かろうとすること」は、本当に悪いことなのか
最初に、はっきりさせておきます。
分かろうとする姿勢は、悪いことではありません。
むしろ、人間関係を築くうえで、とても大切な力です。
相手の話を聞く。
気持ちを想像する。
すれ違いがあれば、理解しようとする。
これらは、ずっと「良いこと」「正しいこと」と教えられてきました。
共感力がある人ほど、自然にやっていることでもあります。
だからここは、
責められる場所ではありません。
分かろうとする力は、
人間関係をつくるうえでの大切な才能です。
「理解=安全」だと信じてしまう理由
では、なぜ私たちは
「分かろうとするほど」関係が重くなることがあるのでしょうか。
その前に、
多くの人が無意識に持っている前提を見てみます。
分かれば、壊れないと思っていた
すれ違いは、理解不足のせい。
誤解がなくなれば、関係は安定する。
ちゃんと分かり合えれば、大丈夫。
そう信じてきた経験が、誰にでもあります。
だから、何か不安を感じると、
「もっと分かろう」とする。
理解を深めることで、
関係を守ろうとしてきました。
理解は「関係を保つための手段」になりやすい
分かろうとする理由の奥には、
こんな気持ちが隠れていることがあります。
離れたくない。
悪くなりたくない。
崩したくない。
このとき、理解は
愛情そのものというより、
関係を安定させるための装置として使われやすくなります。
分かろうとする行為は、
関係を守るための選択でもあります。
理解が「防衛」に切り替わる瞬間
ここが、今日いちばん大切なところです。
理解そのものが悪いわけではありません。
ただ、ある瞬間に、
性質が変わることがあります。
こんなとき、理解は重さに変わる
相手の反応が、少し怖いとき。
距離が離れそうな気配を感じたとき。
「嫌われたかも」と思った瞬間。
このとき、分かろうとする力は、
自然と強くなります。
もっと聞かなきゃ。
もっと理解しなきゃ。
ちゃんと把握しなきゃ。
分かろうとすることで、自分を守っている
その姿は、相手のために見えます。
でも同時に、
自分の不安を下げるための行動でもあります。
分からないままでいると、怖い。
不確かな状態に耐えられない。
だから、理解しようとする。
その理解は、
相手のためであると同時に、
自分を安心させるためでもあったのかもしれません。
「分かってほしい人」と「分かろうとする人」のすれ違い
ここで、少し視点を広げます。
誰も悪者にしないまま、
構造だけを見てみます。
分かってほしい人が求めているもの
多くの場合、
「分かってほしい人」が求めているのは、
正解ではありません。
分析でもありません。
ただ、安心です。
分かろうとする人が差し出しているもの
一方で、分かろうとする人は、
理解を差し出します。
言語化をします。
意味づけをします。
ここに、
小さな噛み合わなさが生まれます。
同じ「分かる」という言葉でも、
見ている方向は、違っていることがあります。
優しさがズレたとき、人は自分を責めてしまう
関係が重くなったとき。
空気が苦しくなったとき。
多くの人は、こう考えます。
「私のやり方が悪かった」
「もっと上手にできればよかった」
でも、それは失敗ではありません。
仕組みを知らなかっただけです。
誰にでも起きることです。
ズレたのは、
あなたの優しさが足りなかったからではありません。
ここで立ち止まれる人は、もう気づき始めている(締め)
もし今、
「あ、私も分かろうとすることで安心してたかも」
そう感じられたなら。
それだけで、今日は十分です。
無理に変えなくていい。
やめなくていい。
ただ、気づけたこと自体が、もう一歩です。
次の記事では、
「善意が、いつの間にか境界線を越えてしまう瞬間」を、
もう少し具体的な日常の場面で見ていきます。

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