MENU

泳ぐ場所は、自分で選べる|他人の目を気にする毎日から、自分の理想が育つ日常へ

当ページのリンクには広告が含まれています。

「泳ぎたい」

そう思ったとき、あなたはどこへ行くだろう。

海へ行く。プールへ行く。

海には、遠くまで続く景色がある。風が吹き、波が寄せる。水はしょっぱい。

プールなら、真水で泳げる場所がある。屋根があり、水温を整えている施設もある。波や泡を楽しめる場所もある。

今日は、どんなふうに泳ぎたいのか。

その願いによって、選ぶ場所は変わる。

海は、人がプールをつくるより、ずっと前からあった。

でも、昔からそこにあることと、今日の自分がそこで泳ぎたいことは、同じではない。

僕は、このことを、普段どんな思考の中で生きているかにも重ねてみたい。

「こう思われたくない」
「こう思われたい」
「こうあるべき」
「普通は、そんなことをしない」

何かを考えるたびに、最初にその言葉が出てくる。

その出発点を、自分で選んだことはあるだろうか。

泳ぐ場所を選ぶように、自分の願いが育つ思考の場所も、選び直せるのではないだろうか。

ここから、このシリーズを始めたい。


目次

いつもの考え方が、唯一の考え方になっている

例えば、知り合いが、人前で演奏を始めたと知ったとする。

動画を開く。まだ慣れていない様子もある。でも、楽しそうだ。

そのとき、最初に何を思うだろう。

「この歳になって、よく始めるな」
「そんな時間があるなら、ほかにすることがあるでしょう」

そう思う人もいるかもしれない。

本人と、何か具体的な約束があるわけではない。それでも、その人がどこかからはみ出しているように見える。

仕事をして、家庭があって、ある程度の年齢になったら、こんなふうに振る舞うものだ。

いつの間にか持っていた基準に、その人を当てはめて見ている。

僕たちは、日々の判断を、何もないところから毎回つくっているわけではない。

教わったこと。周りがしていたこと。これまで自分が選んできたこと。

その積み重ねが、「普通は」という言葉の中に入っていることがある。

それに沿うことで、暮らしが進めやすくなる場面もあるだろう。

ただ、慣れた基準を使っていること自体に気づかなければ、別の問いを置く余地も見えにくい。

あの人は、何が楽しくて始めたのだろう。

自分にも、やってみたいことはあるだろうか。

同じ動画を見ていても、そこから考えることは変わってくる。

僕は、何を見たかと一緒に、どんな基準から見始めているかにも、気づいていたい。


他人を見る目が、自分の願いにも向けられる

その動画を見たあと、自分も、昔好きだった曲を弾いてみたくなったとする。

楽器を出してみようか。短い演奏を、誰かに聞いてもらおうか。

そう思ったところへ、別の声が入る。

「この歳から?」
「今さら、何を目指していると思われるだろう」
「下手なのに見せたら、笑われないだろうか」

少し前に他人へ向けていた問いが、今度は自分へ返ってきている。

実際には、まだ誰にも話していない。

それでも、自分が誰かを見たときと同じように、周囲も自分を見るだろうと想像してしまう。

そして、始める前にやめる。

他人が普通からはみ出していないかを確かめる目と、自分がはみ出して見られないかを気にする目。

その両方の間で暮らしていると、自分の願いを考えるときにも、まず審査が始まる。

何がしたいのかより先に、それを望む自分がどう見えるかを考えている。

僕は、ここを見つめ直したい。

自分が人の選び方に向けている基準は、自分にも使い続けたいものだろうか。

誰かが少し不器用に楽しんでいることを、その人の時間として受け取れたら、自分の最初の一歩にも違う見方ができるかもしれない。

自分も、慣れていないまま始めていい。

まだうまくない自分が楽しむことまで、誰かの許可を待たなくていい。

そう考えられる場所を、僕は日常に持ちたい。

Mkun(えむくん)

誰かへ「その歳で?」と思った言葉が、自分の「やってみたい」にも返ってくることがあるんだね。その基準を、自分はこの先も使いたいのか。一度、考えてみたいな。

Aile(エイル)

他人の行動を判断するときの基準は、自分への評価を想像するときにも使われることがあります。何を当然だと考えているかに気づくと、その基準を今も選びたいか検討できます。


我慢してきた自分を、正しさで支えたくなる

やりたいことを、後回しにしてきた。

時間がなかった。お金にも余裕がなかった。周りを困らせたくなかった。

その中で、自分なりに責任を果たしてきた人がいる。

「自分は、ちゃんとやっている」

その思いが、苦しい時期を支えてくれたこともあるだろう。

僕は、それを簡単に捨てればいいとは思わない。

ただ、自分が諦めた楽しみを、別の誰かが選んでいるとき、その姿が、自分の我慢を軽く扱っているように感じられることがある。

自分は我慢したのに、あの人は楽しんでいる。

あんな選び方が許されるなら、自分が守ってきたものは何だったのだろう。

そこで、相手の間違いを探したくなる。

きっと何かを疎かにしている。周りが困っているはずだ。いつか、うまくいかなくなるだろう。

そう考えると、自分が選ばなかったことにも、少し納得がつくかもしれない。

でも、その納得を得るたびに、「自分も楽しんでみたい」と言いにくくなることがある。

同じ選び方をしたら、今度は自分が、批判していた側へ行くことになるからだ。

正しくあることで自分の価値を確かめようとするほど、自分の望む生き方を試す場所が狭くなる場合がある。

僕は、そこで、守ってきたものと、これから望むものを両方見たい。

あのときの自分には、そうする理由があった。

その経験を持つ今の自分が、別の時間を望んでもいい。

正しさを大切にする暮らしに納得し、穏やかに過ごしている人なら、その選択を変える必要はない。

僕が問いを向けたいのは、苦しいと感じているのに、自分の願いを聞く前から、いつもの基準へ戻ってしまうときだ。


羨ましさのあと、何を考える時間にするか

もう一度、あの演奏の動画を見てみる。

楽しそうだ。人に聞いてもらえている。自分も、あんな時間を持ってみたい。

そう思えたら、その気持ちを、少し具体的にしてみる。

自分は、どの曲を弾いてみたいのだろう。

一人で音を楽しみたいのか。誰かと合わせたいのか。つくったものを届けたいのか。

そこから、調べることが変わる。

手元の楽器を確かめる。最初の一節を練習してみる。分からない操作を、知っている人に聞く。

思うように指が動かない。短い部分だけ、何度も弾く。

少し弾けたとき、自分にも嬉しい瞬間が生まれる。

その間、相手が楽しんでよい人なのかを考えることから、自分が楽しむ方法を考えることへ、時間の使い方が移っている。

羨ましさが一度も生まれなくなるという話ではない。

また比べる日もあるだろう。それでも、そのあとに何を考え、何へ手を動かすかには、選べるところがある。

自分は、どこへ向かいたいのか。

どんなふうに生きたいのか。

誰と楽しみ、誰に何を渡したいのか。

そのために、何を知り、何を身につけたいのか。

僕は、こういう問いへ戻れることを、自分の日常の標準にしていきたい。

人のことを考える時間も、面白いと感じた理由を聞いたり、一緒にできることを探したりする時間へ変えていける。

必要な批判や、実際に起きている問題への対応もある。

そのうえで、一日の関心を何に使いたいかを、自分でも選んでいたい。


プールのように、自分が取り組める条件をつくる

海は、昔からそこにあった。

その景色や波を楽しみたいなら、海へ行けばいい。

一方で、泳ぎたいけれど、温かい水がいい。日差しを避けたい。一定の長さを練習したい。

そんな望みに合わせて、人はプールという場所もつくってきた。

すでにある条件の中で泳ぐことに加えて、望む泳ぎ方に合う条件を整える道もある。

僕がこの比喩から考えたいのは、自分の思考も、慣れた状態だけが唯一の選択肢ではないということだ。

何を見ても「普通かどうか」を確かめる。

何かを望むたびに「誰にどう見られるか」を予想する。

そこから考えることに慣れていても、「自分はどうしたいか」を先に聞く練習はできる。

そして、その問いを持ちやすい暮らしもつくれる。

楽器を手に取りやすいところへ置く。少し試す時間を予定に入れる。話せる相手に、やってみたいことを伝える。

気持ちだけを変えようとするより、自分の願いへ戻るきっかけが、生活の中にある。

同じように、自分が周りへ向ける言葉も選べる。

始めたばかりの人へ、すぐに完成度を尋ねる前に、何が楽しかったかを聞いてみる。

そういう会話が増えれば、自分も、途中のものを見せやすくなるかもしれない。

一人で何でも整えられるわけではない。時間や費用、役割の調整が必要なこともある。

だからこそ、願いを知ったうえで、何を整えたいかを考える。

僕は、自分の理想を育てやすい場所を、実際の日常からつくっていきたい。

Mkun(えむくん)

「僕はどうしたい?」に戻れるものを、暮らしの中へ置いてみたいね。つくりかけの作品でも、楽しみにしている予定でもいい。自分の願いが、いつもの生活に見えているように。

Aile(エイル)

ここでいう泳ぐ場所は、物事を考え始める前提の比喩でもあります。戻りたい問いに加えて、取り組む道具や時間、会話の機会を整えることで、考え方を実際の行動へつなげられます。


自分の願いから始まる日常へ

自分の理想を持つことは、周りにも同じ生き方を求めることにはならない。

自分が海へ行きたくても、相手はプールを望むかもしれない。今日は泳がず、別のことを楽しみたい人もいるだろう。

「自分らしく生きた方がいい」と言いながら、相手の選び方をまた採点してしまえば、同じことが続く。

僕は、自分の願いを大切にするのと同じように、相手にも、その人の願いがあるところから考えたい。

一緒に過ごしたいなら、話してみる。重なる楽しみがあれば、時間をつくる。違いがあるなら、その違いを知って関わり方を考える。

その中で、自分が力になれるところも見つかるだろう。自分にはできないことを、教えてもらう機会もあるだろう。

何をつくれるか。どんな喜びを分かち合えるか。

そこへ向けて使う時間から、自分の技術や、関係や、選べる暮らしが育っていく。

僕が大人3.0として考えたいのは、そういう生き方だ。

周りの普通から少しはみ出していても、自分が望むものと、関わる人の意思と、起きた結果を見ながら、暮らしをつくっていく。

時間の自由、お金の自由、心の自由も、その暮らしを実際に楽しめる形で増やしていきたい。

今日、誰かの楽しそうな姿を見て、少し気持ちが動いたら。

その人がそうしてよい理由を探す前に、自分にも欲しい時間があるかを聞いてみてほしい。

自分は、何を楽しみたかったのだろう。

その願いに気づいたところから、今日の続きは考えられる。

泳ぐ場所は、自分で選べる。

慣れた場所にとどまることも、違う場所を試すことも、自分がどう泳ぎたいかから考えていい。

僕は、人の人生と自分の人生を見張り続けることへ向いていた関心を、自分たちの人生を育てる方へ使っていきたい。

そのための問いを、このシリーズで一つずつ考えていこう。

次の話は、「いくつになれば、自分の人生を楽しめるのだろう」。

願いがあっても、次の心配や用事が途切れず、楽しむ日を待ち続けている。その日常から、どう進んでいくかを考えたい。

まずは、今日の出発点へ、自分の願いを置いてみる。

僕は、どう生きたいのだろう。

その問いから始まる一日を、自分の暮らしに増やしていきたい。

えむくん
Person
Mkun編集室 室長

View Profile

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次