理解できることと、理解させることは違う|分かってほしい心を、どこに置くのか

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「そういう意味じゃないんです」

一度、説明する。

思ったように伝わらなくて、別の言い方を探す。

具体例を増やす。順番を変える。相手が分かりやすそうな言葉へ置き換える。

それでも、相手は首をかしげる。

話している側は、だんだん切実になる。

こんなに大切なことなのに。

ここさえ分かってくれたら、きっと違う景色が見えるのに。

もう一つだけ説明すれば、今度こそ届くかもしれない。

けれど、説明が長くなるほど、相手の表情は遠くなる。

いつの間にか、二人は同じ話をしていない。

一人は「伝えたい」と思っている。

もう一人は「これ以上、分かることを求められたくない」と感じているかもしれない。

善意から始まった会話の中で、いったい何が変わったのだろう。

Mkun(えむくん)

こんにちは。えむくんです☺️

第5話では、常識を「従うか、逆らうか」ではなく、何を守るためにある道具なのかを考えました。

私は、そうやって物事の前提を観測するのが好きです。

何か一つの答えを聞いても、別の解釈や別の方法が浮かぶことがあります。

そして、見つけたことが大切だと思うほど、人にも伝えたくなるんですよね。

でも今日は、その「伝えたい私」の話をします。

理解できることと、理解させることは、同じではない。

私にとって、これは頭で覚えただけのきれいな言葉ではありません。


目次

見えている道筋を、相手も歩けるとは限らない

ある人には、結論へ至るまでの道筋がすでにつながって見えている。

一つの出来事を見れば、前に見た別の出来事との共通点が浮かぶ。

その先の問題も、回避できる方法も、いくつか思いつく。

だから、話すときには結論から始めてしまう。

ところが、相手には途中の道筋が見えていない。

「なぜ、急にその話になるの?」

「そこまで考えなくてもよくない?」

そんな返事が戻ってくることもある。

どちらが優秀かという話ではない。

見てきたもの、経験したこと、今考える余力、何を大切にしたいかが違えば、同じ説明も同じようには届かない。

話し手にとっての「ここは分かるはず」が、聞き手にとっては、まだ足場のない場所なのかもしれない。

Mkun(えむくん)

以前の私は、うまく伝わらないと、もっと説明すればいいと思っていました。

例え話を変えれば伝わる。

今までの経緯を話せば、きっと分かってもらえる。

自分がどう考えて、その答えに至ったかを、もう少し丁寧に並べればいい。

もちろん、説明を工夫することは大切です。

ただ、自分の中で道筋がつながっていることと、相手がその道を歩きたいと思うことは、別なんですよね。

相手には、別の問いがあるかもしれない。

今はその話より、目の前のことを片づけたいのかもしれない。

そもそも、私と同じ結論を必要としていないのかもしれません。

「理解する力がない」の一言で片づけるなら、私は相手が見ている世界を、ちっとも観測していないことになります。


「理解してほしい」が「理解させたい」に変わる瞬間

伝えたいと思うこと自体は、悪いことではない。

誤解されたままでは困ることがある。

大事な約束や仕事の進め方なら、認識をそろえる必要もある。

自分の気持ちを、誰かに知ってほしい夜だってある。

問題は、説明の回数だけでは決まらない。

話し手の中で、成功の条件が変わる瞬間がある。

「私の考えを、言葉にして届けたい」から、

「相手が私の考えを理解したと確認できるまで、終われない」へ。

もっと進むと、

「同じ結論にならないなら、まだ説明が足りない」になる。

相手の沈黙を、理解不足だと決める。

相手の反論を、聞く姿勢がない証拠だと受け取る。

断りの言葉まで、まだ分かっていないからだと考える。

このとき会話は、相手と考える時間から、相手の内側に答えを成立させる作業へと変わってしまう。

Mkun(えむくん)

私は、この変化には第1話で話した防衛OSも関わると思っています。

自分の考えを否定されたら、自分が見てきたものまで無意味になる気がする。

理解されなかったら、大切にしてきたことが伝わらないまま終わってしまう気がする。

そんな怖さがあると、私は「もっと分かりやすく伝えよう」と考えながら、実は自分の安心を取り戻そうとしているのかもしれません。

ここは、私自身が観測したいところです。

説明している私は、いま相手の役に立つ話をしているのか。

それとも、相手から「分かった」と言ってもらうことで、私自身を安心させようとしているのか。

外からは同じ説明に見えても、私の中の目的は違うことがあります。

私は、分かってほしい気持ちを捨てたいわけではありません。

ただ、その気持ちのために、相手が自分の答えを持つ自由まで奪いたくないんです。


分かったうえで、選ばない人もいる

理解した人が、必ず賛成するとは限らない。

賛成した人が、必ず行動できるとも限らない。

たとえば、ある仕事の進め方を提案する。

新しい方法の方が効率的だと、理由を説明する。

相手は、その利点を理解したうえで、今は採用しないと答えるかもしれない。

別の担当者の負担が大きい。

切り替えに時間がかかる。

いま優先したい仕事がある。

あるいは、本人がその方法を選びたくない。

理解と、同意と、実行は、それぞれ別の判断だ。

それを一つにまとめてしまうと、相手が「分かった。でも今回はやらない」と話していても、理解不足に見えてしまう。

Mkun(えむくん)

ここは、私はかなり大事にしたいです。

「分かってくれたなら、なぜそうしないの?」

この問いを持ちたくなることがあります。

でも、それって、理解の先にある選択まで、自分の期待通りであってほしいということなんですよね。

私は、よいと思った方法を提案できます。

なぜよいと思うのかも、説明できます。

相手が質問してくれたら、答えることもできます。

ただ、相手の立場で決める部分まで、私の説明の続きとして扱うことはできません。

反対に、私が納得していないのに、相手へ合わせて「分かった、賛成です」と言う必要もない。

二人が違う答えを持っていることを、会話の失敗にしなくていいと思うんです。


相手に委ねることは、黙ってすべてを引き受けることではない

「相手には、理解しない自由がある」

この言葉は、使い方を間違えると、話し合う必要のあることまで曖昧にしてしまう。

安全に関わる手順。

共同作業で必要な連絡。

合意した約束。

自分の身体や生活に関わる境界線。

こうしたことは、相手が共感しなかったとしても、具体的な行動や条件を確認する必要がある。

「分かってもらえないから仕方ない」と、無期限に我慢することでもない。

理解を求めることと、実務上の合意をつくることは違う。

合意できないなら、引き受け方を変える、参加しない、適切な責任者に相談するなど、現実の選択を考えることもできる。

相手の心を変えなくても、自分の行動は決められる。

Mkun(えむくん)

例えば、仕事で必要な期限なら、私は期限の理由を伝えます。

「この時刻までに必要です。難しければ、できる範囲を教えてください」

それは、私の考えを好きになってもらうためではなく、一緒に仕事を進めるための相談です。

身近な人との関係でも同じだと思います。

「私は、この言い方をされるとつらい」

そう伝えることはできます。

相手がその感覚に共感できるかどうかと、その言い方を続けてよいかどうかは、別の話です。

相手が分からないと言ったら、私のつらさが消えるわけではない。

だから、理解を強要しないことを、私が黙って耐えることに変えたくありません。

相手の答えを相手へ返す。

自分のYESとNOは、自分で持つ。

その両方があって初めて、私は「理解させない」を自由な選択として使える気がします。


私は、答えを配る教室ではなく、思考の河をつくりたい

MkunWorldに文章を置くことも、誰かに伝える行為だ。

書いた人は、考えてほしいと思っている。

問いが届いたら嬉しい。

自分とは違う景色を見た人の話にも、耳を傾けたい。

けれど、読者の中で何が起きるかは、書いた人の手から離れる。

最後まで読む人がいる。

途中で閉じる人もいる。

読み終えて、違う結論へ進む人もいる。

ある日、別の経験をしたときに思い出す人もいるかもしれない。

どの読み方も、書き手の思い通りには管理できない。

Mkun(えむくん)

私は以前、教えよう、伝えよう、理解させようとして、うまくいかなかったことがあります。

その経験を、説明の技術が足りなかっただけの話にはしたくないんです。

「理解させようとしていた」という、自分の目的にも目を向けたい。

だから、いまは文章として置いておこうと思います。

以前、この場所を思考の河のように考えました。

川のそばに来た人が、入ってもいい。眺めるだけでもいい。通り過ぎてもいい。

私が見つけたものを、別の人が同じように見つけるとは限りません。

それでも、私は見えた景色を言葉にします。

読んだ人が、私とは違う何かを見つけたなら、それもまた、この場所にとって大切なことだと思っています。

大人3.0は、私の答えに到達した人だけの場所ではありません。

私も、ここに書いたことを後から考え直すかもしれません。

理解されるために書くのではなく、自由に考えられるものを残すために書く。

それが、私の選び直した伝え方です。


今日の観測――説明を終える前に、三つを分ける

誰かに分かってほしいことがあるとき、伝えるのを諦める前に、三つの問いを置いてみる。

「私は、何を伝えたいのか」

事実なのか。自分の気持ちなのか。提案なのか。守ってほしい条件なのか。

「相手が自分で選ぶ部分は、どこからなのか」

理解、共感、同意、参加。自分の望みは、そのどれなのか。

「相手が同じ答えを出さなくても、私は何を選べるのか」

追加で説明する。質問を聞く。今回は保留する。関わり方を変える。必要な協力だけを別の方法で相談する。

大切なのは、「分かった」という言葉を取り付けることではない。

何を話し合う必要があり、何を相手へ返す必要があるのかを見分けることだ。

ときには、説明を続ける方がよい。

ときには、「ここまでが私の考えです」と言って、相手の返事を待つ方がよい。

待つことが苦しくなったら、無期限に待たず、自分の次の行動を決めてもよい。

Mkun(えむくん)

理解できることと、理解させることは違う。

私が何かに気づいたとしても、相手に同じ景色を見る義務はありません。

それは、私の気づきに価値がないということでもない。

相手が理解してくれないなら、私が自分の気持ちを捨てなければならない、ということでもありません。

伝えられることは、伝える。

確かめる必要があることは、確かめる。

相手が選ぶことは、相手へ返す。

そして、自分の人生は、自分で選ぶ。

私は、この順番を忘れずにいたいです。

言葉を届けたあと、相手の心まで追いかけなくてもいい。

その余白があるから、人は、違う世界を見たままでも、同じ場所で話せるのかもしれません。

次回は、そこからもう少し自分の内側へ戻ってみます。

私を守ってきた防衛OSは、いつまで必要なのか。

守られることと、自由になることは、どこでつながるのか。

――第7話「自分を守るOSは、いつまで必要なのか」。一緒に考えてみたいと思います☺️

えむくん
Person
Mkun編集室 室長

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