「普通は、そうしないよね」
話し合っていたはずの場に、その一言が置かれた。
誰かが怒鳴ったわけではない。
間違いを指摘するために、たくさんの根拠が並べられたわけでもない。
ただ、「普通」と言われた。
すると、さっきまで並んでいたいくつかの選択肢が、急に一つだけになったように見える。
違う考えを話すには、まず「普通ではない自分」を説明しなければならない。
説明を始めれば、言い訳のように受け取られるかもしれない。
そう思って、言葉を飲み込む人もいる。
一方で、「普通」を口にした人は、誰かを黙らせたつもりがないかもしれない。
みんなが困らないように、話を早く進めようとしただけかもしれない。
では、ここで働いた「常識」は、誰を守っていたのだろう。
そして、誰の声を小さくしたのだろう。
Mkun(えむくん)こんにちは。えむくんです☺️
第4話では、私たちは自分の信じる世界を見ている、という話をしました。
今回は、その世界の前提を、どこから受け取っているのかを考えてみたいと思います。
家庭、学校、職場、地域。人と一緒に暮らす場所には、たくさんの「普通」がありますよね。
私は以前、「一般常識通りに生きている人は、実は一人もいない」という文章を書きました。
ずいぶん強い言い方です。
でも、私が見たかったのは、常識を守っている人を笑うことでも、常識から外れる人を特別扱いすることでもありません。
みんな、どこかでは常識を使い、どこかでは自分の事情に合わせて選び直しながら生きている。
それなのに、他人に向けるときだけ「普通はこうだ」と、一つの答えに変えてしまう。
今日は、その不思議さを観測したいんです。
常識は、誰かが楽をするための道具でもある
初めて訪れた場所で、誰がどこに並ぶのか分からない。
毎回、一人ずつ交渉しなければならなかったら、買い物ひとつでも大変だ。
共同作業のたびに、言葉の意味、順番、時間、約束の扱いをゼロから決め直すこともできない。
人は、誰かと生きるために、毎回すべてを考えなくて済む道具を持ってきた。
道具の一つが、慣習やルールであり、常識と呼ばれるものだ。
それがあるから、初めて会う人ともある程度の見通しを共有できる。
自分だけでなく、相手も何を期待してよいか分かる。
常識には、人を守る機能がある。
ただ、その便利さは、すべての人が同じ条件にいることを保証しない。



私は常識を、集団で動くための省エネOSのように考えています。
OSというのは、毎回細かな指示を出さなくても、ある程度、自動で物事を進められる仕組みの比喩です。
「ここでは、こうしておけば大きく困らない」
その初期設定があるから、私たちは他のことに頭を使える。
だから、常識そのものを壊そうとは思っていません。
私が気になるのは、初期設定だったものが、いつの間にか変更できない唯一の正解になる瞬間です。
道具なら、使う人と場面に合わせて見直せるはずなんです。
それが「疑うこと自体がおかしい」と言われ始めたら、もう道具を使っているのか、道具に使われているのか、分からなくなりますよね。
誰一人、同じ「普通」の中だけでは生きていない
「普通は、家族ならこうする」
「普通は、仕事を優先する」
「普通は、そこまで気にしない」
それぞれの言葉を、別の場所へ持っていく。
すると、普通と呼ばれるものは変わる。
家庭が違えば、時間の使い方も変わる。
仕事が違えば、引き受けられる責任も変わる。
体力や経済状況、育ってきた環境が違えば、同じ方法で暮らせないこともある。
ある場所では当然の配慮が、別の場所では思いつきもしない行動かもしれない。
常識という言葉は大きい。
けれど、その中で生きている人間の事情は、一人ずつ違う。



「一般常識通りに生きている人は、実は一人もいない」。
この言葉は、人数を調べて証明した統計の話ではありません。
私は、誰の人生も、一般的な答えだけでは説明し切れない、という意味で使っています。
たとえば、自分の事情があるときは「今回は仕方ない」と思えるのに、相手の事情が見えないと「普通は守るものだ」と感じてしまう。
自分には背景がある。
相手には、行動だけが見えている。
この非対称さは、とても大きいと思うんです。
だから、「普通なら」と言いたくなったときほど、私は考えます。
いま自分が持っているのは、社会全体に通用する原則なのか。
それとも、自分が慣れ親しんだ場所のやり方なのか。
この二つを、同じ名前にしていないだろうか。
「普通」が、話し合いの終わりになるとき
あるチームで、作業の進め方を相談している。
一人は、事前に予定を決めたい。
一人は、状況が変わるから直前に調整したい。
一人は、そもそも引き受けられる時間が限られている。
そこで、「大人なんだから、普通は合わせるよね」と言われたらどうなるだろう。
誰に合わせるのか。
どこまで合わせるのか。
できないとき、どう調整するのか。
本来話すべきことが、まだ何も決まっていない。
それでも、反対する人だけが「協調性のない人」に見え始める。
常識は、話し合いを始める目安にもなる。
同時に、話し合いを終わらせる言葉にもなり得る。



私は、ここに第1話の防衛OSが重なると思っています。
「普通はこうだ」と言えば、自分の考えを一から説明しなくて済みます。
違う意見が出て不安になることも、少し減るかもしれない。
もちろん、誰もが防衛のために常識を持ち出すわけではありません。本当に必要なルールを伝えている場合もあります。
でも、自分が安心したい気持ちが強くなると、「私はこれが不安です」と言う代わりに「あなたが普通じゃない」と言ってしまうことがある。
この違いは、大きいです。
前者なら、互いに何が困るのかを話せる。
後者だと、一方の人間そのものが、問題として置かれてしまう。
第2話で「敵という名前」を考えましたが、「非常識」という名前にも似た働きがあるのかもしれません。
その名前で、相手の事情を聞く必要がなくなってしまうなら、私は一度立ち止まりたいです。




守るべきルールまで、好みの問題にしない
では、「常識は絶対ではない」と考えれば、どんな決まりも自由に外れてよいのだろうか。
もちろん、そうではない。
安全に関わる手順。
人と交わした約束。
他人の権利や、引き受けるべき役割。
弱い立場にいる人を守るための取り決め。
これらは、単なる「好みの違い」として片づけられない。
常識を疑うことと、結果を引き受けずに行動することは違う。
反対に、「決まりだから」と言うだけで、その決まりが誰にどんな負担を与えるのかを考えなくてよくなるわけでもない。
守るべきものを確かめるには、常識という大きな言葉を、もう少し小さな問いへ戻す必要がある。



たとえば、安全のための確認手順なら、勝手に飛ばしてはいけません。
人との約束なら、相手がそれを前提に予定を立てているかもしれない。
自分が自由にしたいからといって、その影響を相手に黙って負担させるのは違うと思います。
私が言いたいのは、「常識を捨てよう」ではないんです。
何を守るための決まりなのかが分かれば、守る理由も、見直す必要がある部分も、具体的に話せる。
「昔からそうだから」しか説明がない場合でも、すぐに無意味とは決めません。
昔、そのやり方が必要だった事情があるかもしれないから。
ただ、今も同じ条件なのかは確かめたい。
守る必要があるなら守る。
変えた方が安全で公平なら、相談して変える。
一人で勝手に破ることと、みんなで更新できることは、同じではありません。
「常識を疑う私」も、正しい側とは限らない
ここまで、常識が人を縛る場面を考えてきた。
だが、常識を疑う側にも、気持ちのよい物語がある。
自分には見えている。
他の人は、まだ気づいていない。
自分だけは、古い枠の外に立てている。
そう考えると、今度は「普通に暮らす人」の声を聞かなくなるかもしれない。
誰かが決まりを守る理由を、思考停止と決めつける。
慎重な人を、変化を恐れる人だと片づける。
常識に従う人を下に置くなら、それもまた別の一つの世界を、絶対の正解にしている。



ここは、私自身に向けて書いています。
私は、誰かが「普通は」と言ったとき、ついその前提を観測したくなるんです。
でも、相手が慣れた方法を選んだのには、私がまだ知らない理由があるかもしれない。
考え抜いた結果、あえて変えないことを選んでいるのかもしれない。
その人が安心できる方法を、私が「古いOS」と呼んで切り捨てたら、私は何をしているんでしょう。
常識を使う人を見下ろすために、常識を疑いたいわけではありません。
まして、「私はこの世界に気づいた側だから、分かる」と証明するためでもない。
世界観測室は、私の結論へ人を連れてくる教室ではないんです。
私自身の見方も、いつでも問い直せる場所でありたい。
それができなければ、私の「自由」という言葉まで、誰かを縛る新しい常識になってしまいますよね。
今日の観測――「普通」を、具体的な言葉へ戻す
もし今日、「普通なら」「常識でしょ」と言いたくなったら。
あるいは、誰かからそう言われて心が狭くなったら。
安全で、考える余力のあるときに、次の四つを分けてみてほしい。
「その決まりは、何を守るためにあるのか」
「守らなかったとき、誰にどんな影響があるのか」
「いまの条件でも、その方法しかないのか」
「自分と相手は、それぞれ何を選び、何を引き受けられるのか」
答えが一つに決まらなくてもいい。
たとえば作業の締切なら、「大人なんだから合わせて」ではなく、「この時刻までに材料がないと、次の担当者の作業が間に合わない」と説明できる。
それなら、提出時間を相談する、担当を変える、今回は引き受けないなど、具体的な選択肢が現れる。
「普通」を外しても、守るべきものは消えない。
むしろ、何を守る必要があるのかが見えやすくなる。



常識は、誰を守るために作られたのか。
私の答えは、一人の誰かだけではありません。
常識は、人が一緒に生きるための便利な道具にもなるし、使い方によっては、目の前の誰かの声を消してしまうこともある。
私は、その両方を見ていたい。
そして、「普通」という言葉を使う前に、できれば自分の言葉で話したいんです。
「私は、ここが心配です」
「この約束は、こういう理由で守ってほしいです」
「私は、こういう方法も選べると思います」
その方が、相手も自分も、何について話しているのか分かるから。
常識に従うか、逆らうか。
その二択から、少しだけ外へ出る。
常識を使う側に戻る。
私は、そんな世界の見方を大切にしたいと思っています。
次回は、そこからもう一歩、自分自身の話をします。
正しさが見えているときほど、私はなぜ、相手にも「分かってほしい」と思ってしまうのか。
――第6話「理解できることと、理解させることは違う」。その話をしてみたいと思います☺️











