私は、なぜ「この世界には敵がいない」と考えるのか|Mkunの世界観測

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誰かにひどいことをされたとき。

大切にしていたものを壊されたとき。

自分の言葉が、まるで届かないと感じたとき。

人は、とても自然に思う。

「あの人は、私の敵だ」

敵がいると思えば、自分が怒っている理由は明快になる。身構える理由も、離れる理由も、戦う理由も、ひとつの言葉に収まる。

けれど、その言葉を心の中に置いたあと、目の前の人は、どんな姿に見えるようになるだろう。

Mkun(えむくん)

こんにちは。えむくんです☺️

第1話では、人は自分を守るために、守りたかったはずの相手まで傷つけることがある、という話をしました。

今日は、その先にある、私の少し変わった考えを書いてみます。

私は、この世界に敵はいないと思っています。

言い切ると、きっと違和感がありますよね。

「現実を知らないだけじゃない?」と思う人もいるはずです。

それでも、私はこの言葉を使いたい。

ただし、これを読んだあなたに「敵だと思うのをやめなさい」と言いたいわけではありません。

私には、こういう見え方がある。その景色を、少しだけ一緒に眺めてもらえたら嬉しいです。


目次

「敵」と名前をつけた瞬間、何が変わるのか

ある人が、自分の意見に強く反対した。

その人は、反対意見を述べた人かもしれない。

自分の事情を知らずに話した人かもしれない。

本当に、自分を不利にしようとしている人かもしれない。

この時点では、まだいくつもの可能性がある。

ところが、相手を「敵」と呼んだ瞬間に、頭の中の説明が急に短くなることがある。

反対するのは、敵だから。

黙っているのは、何かを企んでいるから。

優しくしてくるのも、油断させるためかもしれない。

何をしても、「敵」という答えに戻ってくる。

名前がついたことで分かった気になり、名前の向こう側を、確かめなくなる。

Mkun(えむくん)

私が気になるのは、ここなんです。

本来は、ある出来事を理解するためにつけた名前だったはずなのに、その名前が、次の出来事の解釈まで決め始めてしまう。

「この人は何を考えているんだろう」という問いが、「敵だから、こうするに決まっている」へ変わる。

それは、自分を守るうえで役立つ場合もあります。危険を感じたら、いちいち相手の事情を考えていられないから。

でも、危険が去ったあとも、その名前だけで相手のすべてを説明し続けたら、私の見える世界は、少しずつ狭くなる気がするんです。


敵がいる世界は、分かりやすい

分かりにくい出来事ほど、人は一つの理由を欲しくなる。

なぜ、あの言葉を言われたのか。

なぜ、あのとき助けてもらえなかったのか。

なぜ、同じ説明をしても伝わらなかったのか。

理由が分からない状態は、落ち着かない。

「あの人は敵だった」と考えると、混乱していた出来事が、一つの物語にまとまることがある。

そして、その物語の中では、自分が守るべきものも、戦うべき相手も、はっきりする。

敵という説明は、相手を理解するためだけでなく、自分の足元を安定させるためにも使われるのかもしれない。

Mkun(えむくん)

私も、そんな説明が欲しくなることはあります。

自分は間違っていなかった。相手がひどかった。それなら、もう考えなくていい。

そう結論づけられたら、どれだけ楽だろうと思うこともある。

でも、私はそこで、もう一つだけ自分に聞いてみたくなるんです。

「相手を敵と呼ぶことで、私は何を守ろうとしている?」

傷ついた自分の正しさでしょうか。

失ったものには意味があった、と信じるためでしょうか。

これ以上、同じ痛みを味わわないためでしょうか。

どれも、軽く扱っていい気持ちではありません。

ただ、守ろうとしているものに気づくと、「敵」という一語以外にも、自分を守る方法があるかもしれないと思えるんです。


相手の世界には、私が見ていないものがある

同じ会議に出て、同じ言葉を聞いた二人が、まったく違う受け止め方をする。

片方は、提案を改善するための指摘だと思う。

もう片方は、自分の努力を否定されたと感じる。

片方は、その場を収めるために黙る。

もう片方は、黙られたことを拒絶だと受け取る。

起きたことは共有できても、そこに与えた意味までは共有されていない。

自分からは「攻撃」に見えた行動が、相手の側では「防衛」だった可能性がある。

もちろん、防衛だけとは限らない。利益を得たい、支配したい、腹を立てた相手を困らせたい。そうした意図が実際にあった可能性も残る。

外から見た行為だけでは、相手の内面は確定しない。

Mkun(えむくん)

私が「敵はいない」と言うとき、相手には必ず事情があるから正しい、という意味ではありません。

人は、その人が見ている世界の中で、何かを選んでいる。

その世界には、私の知らない恐れや、守りたいものや、思い込みや、欲しいものがあるかもしれない。

だから私は、相手を一つの名前で完成させたくないんです。

「この人は敵だ」で終わるより、「この人には、私と違う何が見えていたんだろう」と問うていたい。

答えを知れないこともあります。本人が話したくないなら、聞き出す権利もありません。

それでも、分からないまま残しておける。

分からない人間を、すぐに敵へ変換しなくてもいい。

私にとっては、その余白が、とても大きいんです。


「敵ではない」は、「近づいていい」ではない

ここで、話を現実へ戻そう。

誰かが、繰り返し人を傷つけている。

約束を破る。脅す。自由を奪う。嘘を重ねる。

そうした行為があるなら、まず必要なのは、その行為を事実として見ることだ。

理由を知るまで、拒否できないわけではない。

相手を理解できるまで、離れてはいけないわけでもない。

危険な場から離れること、助けを求めること、接触を断つこと、必要な責任を問うことは、「敵」という言葉を使うかどうかとは別に選べる。

Mkun(えむくん)

ここは、私が大切にしている線です。

私は、人間そのものを「敵」という一語に閉じ込めたくない。

でも、だからといって、相手の行為を引き受ける必要はありません。

殴られたら、身を守る。

奪われたら、取り戻すために動く。

傷つけられ続けるなら、離れる。

相手を憎まなくても、明確にNOと言える。

相手の事情を想像できても、相手の人生を背負わなくていい。

「敵はいない」は、無防備になるための合言葉ではありません。

相手の存在を否定せずに、自分の安全と自由も守る。そのための世界の見方なんです。


人間と、行為と、関係を分けてみる

私たちは、誰かとの出来事を、一息で語ってしまうことがある。

「あの人は最低だ」

「もう信用できない人間だ」

「私の敵だ」

そう言いたくなるほど、強い痛みがあったのかもしれない。

ただ、観測するなら、三つに分けることもできる。

その人は、私には分からない事情も持つ一人の人間。

その人がした行為には、具体的な影響と責任がある。

その人と今後どう関わるかは、私が選べる関係の問題。

三つは、同じ答えでなくてもいい。

Mkun(えむくん)

私は、ここを混ぜないでいたいんです。

「この人にも、その人なりの世界がある」と思う。

同時に、「あの行為は受け入れられない」と言う。

そして、「だから私は、もう一緒にはやらない」と決める。

この三つは、矛盾しません。

大切だった相手でも、今は距離を取ることがある。

尊重できる人でも、その提案には賛成できないことがある。

話し合っても折り合わないなら、違う道を選んでいい。

誰かを悪者にしなければ離れられない、という世界より、私はずっと自由だと思います。


私も、誰かの世界では「敵」かもしれない

人を観測する視線は、いつも自分へ戻ってくる。

自分では助けたつもりの言葉が、相手には干渉だったかもしれない。

正直に言ったつもりの意見が、相手には否定として届いたかもしれない。

距離を置く判断が、相手には見捨てられたように映ることもある。

自分がどれほど丁寧に考えたとしても、相手が見ている世界まで管理することはできない。

Mkun(えむくん)

もし私が、誰かの世界で「敵」になっていたら。

以前なら、「違う、私は敵じゃない。分かってほしい」と説明したくなったと思います。

でも、今はもう一つ考えます。

その人がそう感じたことまで、私が訂正する必要はあるのかな、と。

私の行為で具体的な痛みが生まれたなら、そこは見たい。必要な謝罪や修正があるなら、考えたい。

けれど、私という人間をどう呼ぶかは、相手の中にあることでもある。

私が自分を守るために「敵ではないと認めて」と迫ったら、結局、相手の世界を変えようとしてしまう。

理解してほしい気持ちがあっても、理解を義務にはしない。

これもまた、私にとっての「敵はいない」です。


敵がいない世界にも、対立はある

利害の衝突は、なくならない。

意見の違いも、傷つけられた事実も、必要な対抗も、なくならない。

ある行為を止めるために、強く反対しなければならないときもある。

誰かを守るために、その場を離れたり、権限のある機関へ相談したりする必要もある。

人間そのものを敵と呼ばないことは、世界から危険を消す魔法ではない。

それでも、「誰を憎むか」以外の問いを、手元に残すことはできる。

Mkun(えむくん)

私にとって、「敵はいない」は、現実についての調査結果ではありません。

自分が世界をどう見るかという、私の選択です。

対立する人はいます。

危険な行為もあります。

だから、必要なら止める。断る。離れる。責任を問う。

そのうえでなお、私は「この人間は敵だから、もう何も見る必要がない」とは決めたくない。

敵のいない世界は、みんなが仲良くする世界ではありません。

相手を一つの名前に閉じ込めず、自分の行動は自分で選べる世界です。

私の考えに賛成しない人がいても、大丈夫です。

それで、その人が私の敵になるわけでもありませんからね☺️


今日、ひとつだけ名前を外してみる

いま、思い浮かべると身構えてしまう相手がいたら。

無理に好きにならなくていい。思い出すだけで苦しいなら、この観測をしなくてもいい。

ただ、余力がある日に、「敵」という名前の代わりに、実際に起きたことを一つだけ書いてみる。

「私の意見に、強い言葉で反対した」

「約束を守らなかった」

「私は、それ以上の関わりを望まない」

その人の全人格ではなく、行為と自分の選択を言葉にする。

何が起きたのかは曖昧にせず、まだ知らない内面を勝手に埋めない。

それだけで、怒りが消えるわけではない。

でも、相手をどう呼ぶかに、自分の次の一歩を預けなくてよくなる。

Mkun(えむくん)

私は、世界から争いが消えたと思っているわけではありません。

ただ、人を敵として見なければ、自分を守れないとは思いたくないんです。

相手にも、その人の世界がある。

私にも、私の世界がある。

同じ景色を見られなくても、互いの人生を取り上げずに、それぞれの一歩を選べる。

今日は、そこまでにしておきましょう。

でも、きっと次の問いが浮かんでいる人もいると思います。

「敵はいないと言うなら、悪意は? わざと傷つける人もいるでしょう?」

その問いは、避けずに考えたいです。

次回は、「悪意がないなら、傷つけた責任はどこへ行くのか」。

私の思想の中でも、いちばん誤解されやすい部分に進みます。

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