はじめに
この文章は、
誰かを非難するためのものではありません。
拗ねる。
無視する。
皮肉を言う。
こうした振る舞いは、ときに
「未熟」「大人げない」と評されます。
しかしそれらは、本当にただの欠点なのでしょうか。
人類は、最初から
言葉で対話できる存在ではありませんでした。
言葉が足りない。
安全に本音を出せない。
関係を壊せない。
そんな状況の中で、人は
言葉以外の方法で、心を動かす技術を身につけてきました。
このシリーズは、
それらを「悪」として断罪するものではありません。
また、使い方を教えるものでもありません。
ただ、
人類がかつて使っていた“心の道具”を、静かに並べて眺める試みです。
人は、なぜ「操る」必要があったのか
今でこそ、私たちは
「話し合い」「対話」「言語化」を当然のものとして扱います。
けれど、多くの時代においてそれは
贅沢な能力でした。
- 立場が弱い
- 言い返せない
- 逆らえば生きていけない
- 感情を出せば関係が壊れる
こうした環境では、
率直な言葉は“危険”になります。
そこで人は、
- 感情を引っ込める
- 空気を変える
- 不安を匂わせる
- 関係の遮断を示す
といった方法で、
直接言わずに、相手を動かすことを学びました。
それは狡さではなく、
生き延びるための知恵でした。
「未熟なコミュニケーション」と呼ばれているもの
現代では、これらの振る舞いは
しばしば「未熟なコミュニケーション」と呼ばれます。
確かに、
- 問題を解決しない
- 相互理解を深めない
- 関係を育てない
という限界を持っています。
しかし、それは
目的が違う道具だった、というだけの話でもあります。
これらの技法が目指していたのは、
- 理解
- 合意
- 成長
ではなく、
今この瞬間を、壊れずにやり過ごすこと
でした。
未来を作るための言葉ではなく、
その日を生き延びるための振る舞い。
それが、ここで扱う「過去の遺産」です。
なぜ、今も残っているのか
環境が変わっても、
人の心はすぐには変わりません。
- 家庭
- 職場
- 小さな共同体
言葉を使うことが、
今もなお難しい場面は存在します。
だからこれらの技法は、
完全には消えていません。
むしろ、
「無自覚なまま使われ続けている」
という形で残っています。
それ自体を責めることは、
意味を持ちません。
大切なのは、
それが、どんな時代のための道具だったのか
そして、今の時代にどこまで有効なのか
を、知ることです。
私の立ち位置について
ここで、ひとつだけ
個人的な立ち位置を示しておきます。
私は、
これらの技法を否定するために
この文章を書いているわけではありません。
ただ、
私はもう、これらを必要としていません。
それは優れているからでも、
成熟しているからでもなく、
単に、
言葉を使うほうが、静かで、確実だと知っている
それだけです。
かつて必要だった道具を、
今も大切に持ち続ける人がいてもいい。
同時に、
もう使わなくていいと感じる人がいてもいい。
このシリーズは、
その分岐点に立つための
観測記録です。
このシリーズで扱うこと
これから、以下のような
「心を動かすための古い技法」を
ひとつずつ見ていきます。
- 拗ねる
- 無視・シカト
- 不機嫌という空気
- 被害者ポジション
- 罪悪感
- 自己犠牲
- 皮肉
- 試し行動
それぞれについて、
- どんな環境で生まれたのか
- なぜ機能していたのか
- 教育や関係性に、どんな影響を与えるのか
- 現代では、どこに置くのが妥当なのか
を、淡々と整理していきます。
結論を押しつけることはしません。
ただ、
「選べる位置」まで視点を上げる
それだけを目指します。
おわりに
人類は、
操ることを学んできました。
そして同時に、
操らずに関係を結ぶ方法も
少しずつ学び続けています。
このシリーズは、
その途中にある記録です。
読んだあとに、
何かを変える必要はありません。
ただ、
「ああ、そういう時代の名残だったのか」
そう思えたなら、
それで十分です。