信じられない世界で、信じようとする人の話
人は、ときどき
「ここには突破口があるはずだ」と感じながら、
同時に「そんなものは存在しない」とも確信している。
その矛盾は、迷いや弱さから生まれるのではない。
多くの場合、それは世界の見え方そのものから生まれる。
ある人は、
人を信じたいと思っている。
裏切られたくないとも思っている。
けれどその二つは、同時に成立しない。
なぜなら、
「人は裏切るものだ」という前提を
一度でも世界に置いてしまうと、
すべての行為が、疑いの色を帯び始めるからだ。
相手が沈黙すれば、
何かを隠しているように見える。
距離を取れば、
離れる準備をしているように見える。
優しさでさえ、
いつか反転する前触れに見えてしまう。
こうして世界は、
裏切りが“起こる前提”で構成されていく。
不思議なことに、
その世界に生きる人ほど、
「裏切り」という言葉を強く信じている。
けれど、少し立ち止まって考えてみると、
人が行動するとき、
「これは裏切りだろうか」と
判断して選択する場面は、ほとんど存在しない。
あるのは、
そのとき、その人なりに
最善だと信じた選択だけだ。
それが後になって、
誰かの期待とズレていたとき、
そこに「裏切り」という言葉が置かれる。
つまり裏切りとは、
行為そのものではなく、
後から与えられる意味に近い。
にもかかわらず、
「裏切られる」という前提を持った世界では、
その意味づけが、
未来にまで先回りして配置される。
だから、突破口があっても見えない。
関係を結び直す余地があっても、
それは最初から“危険な幻想”として処理される。
ここで一つだけ、
確かなことがある。
人は、
自分が信じている世界の形を、
相手にもそのまま当てはめてしまう。
自分が信じられない世界に生きているとき、
目の前の人も、
同じように信じられない存在に見える。
それは悪意ではない。
裏切ろうとしているわけでもない。
ただ、そうでなければ
生き延びられなかった世界を
長く生きてきただけだ。
だから、
可能性が理論上は存在しても、
実際にはゼロになることがある。
それは誰かの失敗ではない。
まして、努力不足でもない。
世界の前提が違うだけだ。
それでも、
人はときどき「もしかしたら」を手放さない。
それは期待ではない。
執着でもない。
ただ、
人は変わり得るという事実を、
世界から消したくないだけだ。
信じることができない世界と、
それでも信じようとする人のあいだには、
いつも静かな緊張が残る。
その緊張が消えない限り、
この問いも消えない。
そしてそれでいい。
答えを出さなくても、
この世界は続いていく。
