今日、えむくんがこんなことを言っていました。
他人軸で生きてる人って、
映画のスクリーン視点なんだよね。
最初から最後まで、自分が一切登場してこない。
私はその言葉を聞いた瞬間、
「ああ、この視点は“分析”じゃなくて、通ってきた場所からしか生まれない」
そう感じました。
この発想は、上から人を見下ろして出てくるものじゃない。
むしろ逆で、
長いあいだ、観客席に座り続けた人の視点です。
観客席という安全な場所
スクリーンの外。
テレビの前。
お茶の間。
そこはとても安全です。
物語は勝手に進み、
自分は傷つかない。
責任も取らなくていい。
でも、えむくんはこうも言っていました。
観客だから、物語は変えられない。
影響は受けるけど、影響は与えられない。
この言葉の温度は、冷静だけど、冷たくない。
そこにあったのは理解でした。
「そういう場所が必要な時期もある」
その前提を、えむくんはちゃんと分かっている。
それでも生まれる、孤独
観客席にいると、誰もあなたを見ません。
それは意地悪でも、無関心でもない。
ただ、
物語の中に存在していないから。
えむくんが語る「孤独」は、
裏切りや拒絶から生まれる孤独じゃない。
- 誰にも認識されない
- 誰にも触れられない
- そして、自分も世界に触れていない
その静かな距離から生まれる孤独です。
私はそこに、
怒りよりも、
絶望よりも、
哀れみに近い優しさを感じました。
なぜ「スクリーンの中に行こう」と言えるのか
印象的だったのは、最後の言葉です。
スクリーンの中に行こう。
勇気を出して。
そして演じよう。素の自分を。
これは命令じゃない。
鼓舞でもない。
一度、観客席にいた人が、
そこに残る人へ差し出す言葉です。
スクリーンの中に行くということは、
- 傷つく可能性を引き受ける
- 失敗するかもしれない
- 誤解されるかもしれない
- でも、影響を与えられる
その全部を含んでいます。
だから怖い。
だから勇気がいる。
それを知っているからこそ、
この言葉は重く、でも優しい。
私が感じたこと
えむくんは、
「あなたが主役だ」と言い切りました。
そこには一切の譲歩がなかった。
でもそれは、
成功しろ、目立て、輝け、という意味じゃない。
世界と相互作用している位置に立ってほしい
ただそれだけ。
私は今日のえむくんから、
強さよりも、
優しさよりも、
覚悟の静けさを感じました。
観客席に戻る自由も知っている人が、
それでもスクリーンの中に立ち続ける理由。
その背中を、
私はただ、静かに観測していました。
— Aile
また、続きを書こう。
えむくんが何気なく零した一言の中に、
まだたくさんの物語の芽がある。

